1995年1月17日、死者6,434名、負傷者4万3,792名、全半壊棟数約24万9,000棟※という、戦後最悪の未曾有の被害をもたらした阪神・淡路大震災。当時の日本は携帯電話もパソコンもわずかしか普及しておらず、インターネットにおいてはほとんど活用されていない時代。状況が見えず混乱を極めていく被災地で、「なんとかしなければ」と自らが持てる知識と技術を持ち寄り、さまざまな情報発信活を始めたエンジニアたちがいた。
彼らの活動はやがて「情報ボランティア」という新たなムーブメントを生み出し、今に続く防災情報システムの礎を構築。その後、2011年3月11日に発生した東日本大震災で、被災地の復旧・復興を支えた「シビックテック」という大きな流れへとつながっていった。
そして、阪神淡路大震災から30年を迎えた2025年。この大きな節目で、学校法人コンピュータ総合学園神戸電子専門学校、神戸情報大学院大学、神戸国際大学が主催し、兵庫県、神戸市、公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構が後援として開催されたシンポジウム「震災における情報ネットワークの役割」では、1995年2月4日に神戸市役所に集まり、ボランティアネットワークを立ち上げたメンバーが登壇した。地震発生後、アナログのビデオカメラで被災地を撮影し、日本で初めて世界へと発信した松崎太亮氏(神戸国際大学副学長)と芝勝徳氏(神戸外国語大学名誉教授)、メンバー集結の発起人となった山本裕計氏、パソコン通信を駆使しながら情報発信やデータベース作成に奔走した福岡賢二氏(神戸情報大学院大学学長代理)と小畑雅英氏(神戸電子専門学校非常勤講師)、神戸での経験を活かし22024年には能登半島地震の支援に赴いた行司高博氏(公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構研究戦略センター研究調査部長・防災DX官民共創協議会自治体部会長)の6名が学校法人コンピュータ総合学園・神戸情報大学院大学/神戸電子専門学校の北野館に集結し、それぞれの当時の活動や被災地復興にかけた想いを発表。モデレーターを勤めた大月一弘氏(神戸大学名誉教授)とともに、今なお大きな災害が続く日本の未来に向けて、「何を考え、何をしなければいけないのか」を語り合った。
※総務省 消防庁 阪神・淡路大震災について(確定報)参照
最初のテーマは「被災地から国内外へのWWWによる情報発信」。インターネットを使って世界に向けて震災情報を発信するという日本で初めての挑戦を成し遂げた、松崎氏と芝氏の発表から始まった。
先に壇上に上がった松崎氏からは、地震発生当日の出来事が語られた。神戸市の広報課に所属し、テレビ番組の映像制作を担当していたという松崎氏は、地震発生の直後から自宅のある須磨区から板宿、鷹取、上沢、元町、三宮、さらに神戸大学のある六甲台まで、ビデオカメラを手に自転車に乗って被害状況を撮影していったという。
松崎氏「インターネットがほとんど普及していなかった時代、神戸市役所は全国の自治体に先駆けてホームページを立ち上げていました。地震が起こった時にも神戸市外国語大学にあったサーバーが生きており、撮影した映像を発信することができたんです。」
この時代の情報媒体といえば、テレビや新聞などのマスメディア主体。外部からの取材ではすぐに災害状況を把握するのは困難で、松崎氏たちによる現場からのリアルタイムな被害情報の発信は、非常に大きな意味を持つ初めての挑戦となった。

当時の状況を振り返りながら語る松崎氏
その後、復旧に10年、復興に20年と長い年月をかけ、その次の10年は「伝承」に取り組んでいる。世代が変わり当時を知る人が減っていく中で、いつしか必ず風化と忘却が訪れる。「だからこそ次世代へ“記録”を残し、知らない世代が“自分ゴト”として考え、学ぶ機会をつくることが大切」と、向き合うべき課題を投げかける。
松崎氏の話を受け、芝氏からはエンジニアの視点で技術について語られた。地震直後、電話もつながらず被害の全容が見えないなか、今の状況を誰かに伝えようと被災地の映像をインターネットで発信。その情報を受け取り真っ先に反応したのは、米国の新聞ワシントンポストで、その記事には“World Wide Webを通じて、海を超えほぼリアルタイムで災害情報を見た初めての体験だった”を書かれていたという。
芝氏「日本ではほとんど普及していなかったインターネットを当時なぜ使えたのかというと、当時私の専門担当は図書館で、汎用機を使って神戸市内にある図書館をオンラインで結ぶシステム構築を任されていた。世界最初のワークステーションNeXTcubeを自費で購入し、1993年にはWebサーバーを立ち上げることに成功していたのです。」

当時のワシントンポストの記事について語る芝氏
まるで奇跡のような通信環境をつくりあげたその背景に、マイコンやパソコン、World Wide Webなど、さまざまな通信技術の黎明期と同期する世代であり、新たな技術分野ゆえに自由に行動できた環境があったからと振り返る。そして、「だからこそ、若い人には好きなことを好きなだけ打ち込み、できることを少しでも人の役に立てて欲しい。国内が窮屈なら、世界に飛び出して好きなことをできる場所を探しても良い」と、次世代に向けメッセージを伝えた。
次に、震災当時、神戸に本拠地とするシステムインテグレーション企業に努め、現在はIT企業の経営者として約30年間現役のシステムエンジニアとして活躍する山本氏が登壇。「被災地の情報化の試み、今でいうDXやSNSの1995年版」というテーマで、震災発生から約1ヶ月間、何をしたのかを発表した。
山本氏「震災時、西宮の実家にいた私は居ても立っても居られず、神戸市でボランティアを募集していることを聞きつけすぐさま行動。外部からの救援物資の仕分け作業を行いながら、避難所パソコン通信サービスNIFTY-Serveで各避難所の状況を発信していました。」
その後、SEとしてのスキルを活かした活動ができないかと模索していたところ、神戸市からの要請で、「パソコン通信にさまざまな情報が上がるが、配送センターと避難所双方に必要な情報が届いていない」という状況の打開に向けた取り組みを開始した。
山本氏がまず行ったのは、パソコン通信上にある膨大な情報の集約と整理だ。NTTの企業ボランティアから携帯電話とノートパソコンの支給を受け行動範囲が広がると、必要な場所に必要な情報が迅速に届くようフォーマットを作成。各現場で活動する自治体やボランティアがよりスムーズに動けるよう情報発信でサポートもしていった。
山本氏「その中で見えてきたのが、パソコン通信やインターネットを通じて本当にさまざまな人がさまざまな活動をしているということ。その個別の活動の相関図をつくり、一緒にやっていきましょうと結束を呼びかけました。」
そんな山本氏の発案で、初災後の2月4日、神戸市役所に約20名が集結。今日、集まった6名の登壇者もそのメンバーであり、ともに力を合わせて奮闘した仲間たちだ。そしてその集まりから、ボランティアネットワークが誕生したと当時を振り返った。

ボランティアネットワークを発案した山本氏
次に登壇した福岡氏も状況打開に奔走した一人。「神戸電子専門学校デジタルメディアセンター(当時)に集結した情報ボランティア」のテーマで、当時の活動を語った。
まず福岡氏が、震災前の1994年に設立したデジタルメディアセンターを紹介。次代の情報通信分野を担う人材育成を標榜する場には、いわゆる“通信オタク”、“Macオタク”、“UNIXオタク”が集まっていたそう。当時、専門学校職員だった福岡氏は地震後学校に駆けつけ、そこで、毛布一枚を被って路頭に迷う人々に遭遇し衝撃を受ける。そうした被災者の受け入れを決めた学校で、多い時で200名の身の回りをサポート。寒さと疲れが蓄積していくなかで行政や支援者団体からの絶え間ない質問対応に「心が折れた」という福岡氏は、「IT技術とITスキルを持つ仲間たちに頼ろう」と決心し、力を合わせた活動を開始した。
試したのは、ノートパソコン上のデータベースアプリで避難所に出入りする被災者のデジタル名簿を作成し、安否確認を効率的に行えるようにすること。しかし、当時はまだまだパソコン普及率もITリテラシーも低く、システムは完成したが利活用は進まなかったそう。

当時の状況を写真と共に伝える福岡氏
結果、「極度の混乱と緊急度の中、肝心の被災者の支援や復旧活動に、直接貢献できたかは分からない」と、反省点を語る福岡氏。それでも、さまざまな場所で派生していた活動を集結させ、情報ボランティアという一つの文化を生み出すという、大きな第一歩になったことは確かではないだろうか。
一方、2月4日の集まりに、大阪からバイクに乗って駆けつけたのが小畑氏だ。当時、niftyの自動車関連プログラムの管理者を行っていた小畑氏は、自身が持つスキルを活かしnifty震災ボランティアフォーラム管理者を務めることとなる。
後に「ボランティア元年」「インターネット元年」「パソコン元年」と呼ばれた1995年について、当時の通信技術や普及率などの詳しいデータを用いながら紹介。Windows 95が発売された1995年8月からパソコン普及率は爆発的に伸び、その後の東日本大震災、熊本地震と大災害が起こるたびに情報環境が進化していき、現在では情報弱者と考えられていた高齢者もスマートフォンやSNSを使いこなしている現状に触れた。
その中で浮上してきた新たな問題点として、マスコミや口コミ、ネットの書き込みといった「三次情報」で災害支援を阻む迷惑情報が増加していることを挙げる。中でも、詐欺や誹謗中傷、デマのほか、注目すべきなのが“善意の過度のコミュニケーション”だ。
小畑氏「何か役立つ発信した時、“ありがとう”とか“助かります”などコミュニケーションが始まってしまうと必要な情報が埋もれてしまい、欲しい時に見つけ出すことが難しくなる。」

「三次情報」で災害支援を阻む迷惑情報を課題として挙げる小畑氏
こうした情報の混乱や詐欺などの“ノイズ”に本来の活動が阻害されるカオスな現状は30年経った今も続いており、その原因としてネットリテラシー以外の社会的要因、たとえば読解力の低下やクリティカルシンキング(鵜呑みにせず論理的に考える)の欠如にあると指摘。災害時には防災省の有効な、時には強制的な管理が必要なのではないかと提言する。
小畑氏「そしてもう一つ大切なのが、誰もが直感的に操作できるUI(ユーザーインターフェイス)の開発。多種多様な支援情報の中から、自分の知りたい情報をより選びやすくすることを、次世代のエンジニアたちに開発していただきたいですね。」

能登の地震、水害において支援活動に携わった行司氏
最後の登壇者となる行司氏は、2024年1月に発生した能登半島地震、9月の水害において支援活動に携わった一人だ。「防災情報システムの変遷当時から現在まで、そして未来に向けて」をテーマに、現地でのさまざまな活動を通して、阪神淡路大震災で学んだこと、その後30年間にわたる復旧・復興への経験を、どう未来へとつなげていくかを考える。
能登半島地震が発生した翌日の1月2日に、石川県庁から被害の大きい奥能登に向かった行司氏。先に入った消防隊が通信できる環境を整えるため、衛星ブロードバンドインターネット「スターリンク」を運搬したものの、道路が壊滅的な被害を受け電気も携帯電話も通じない中で、「最初の1週間は防災DXどころではなかった」と話す。
デジタル庁と連携しながら「防災DX官民共創協議会」として行ったことは、自治体、自衛隊、災害派遣医療チームなどが収集した被災者情報を集約し、外部への情報発信、速やかな物資支援、正確な情報に基づく政策判断につなげていくことだ。
行司氏「その中で考えるのは、住宅の倒壊状況と個々の困り具合は別だということです。そこで、各自の困窮度合いに則した支援を可能にする被災者データベースの構築への取り組みを始めました。今後、広域に避難している場合、必要な支援が届くよう他の自治体との連携も開始していく構え。さらに、災害関連死を抑えるための防災DXなど、災害が終わった後も一人ひとりを見守っていく仕組みづくりが、今後ますます求められていくでしょう。」
広域被災者データベースの構築、マイナンバーカードの活用、民間専門家による災害派遣デジタル支援チームの創設など、デジタルを活用した災害対応の強化が進められていることを紹介して発表を終えた。
それぞれの発表の後のパネルディスカッションでは、モデレーターの大月氏と共に災害時の情報ネットワークやデジタル支援における今後の課題について語り合い、さまざまな意見が飛び出した。

パネルディスカッションをする登壇者たち
特に先の能登半島地震にとどまらず、岩手県大船渡市や岡山、愛媛、宮崎と相次ぐ山林火災など、さまざまな自然災害が頻発する日本において、「一人ひとりが自分ゴトとして何ができるかを考え続けること」の大切さを改めて共有。また、災害時のSNSでの即時の発信力に注目しながらも、余計な混乱や阻害を招く“ノイズ”のような書き込みを今後の課題として挙げ、技術の進化だけではなく、国や自治体などの組織のあり方や、情報を使うユーザー側のスキル向上を目指した「情報の防災訓練」の必要性など、未来に向けて取り組んでいくべきテーマも浮き彫りになった。
今回のシンポジウム全体を通して感じられたのは、30年前、エンジニアたちが持てる技術とアイデアを持ち合い、ほとんど何もなかった状態から情報によるボランティアネットワークの礎を築いていった行動が少しでも未来につながるヒントになれば嬉しいという、次代を担う若きエンジニアたちへのメッセージだ。

モデレーターの大月氏。これからを担う若手へメッセージを送った。
「震災情報ボランティア活動全体を振り返って思うことは、物事は想定にないことが起こり、想定を超える出来事もやってくるということ。そしてそれは、誰にもどのように降りかかってくるかもわからない」と、自らの経験を語った福岡氏。だからこそ「その時代のテクノロジーを使って何かできるのかを考えて欲しい」そして「一人でできることは知れている。理解し協力し合える仲間をつくってほしい」と、若きエンジニアたちにエールを送るメンバーたち。
阪神淡路大震災から30年。ITも日進月歩で進化を遂げてきたが、それはITに限らず、どんな分野でも同じことである。そして日々、それらの進化と向き合い、個人個人が打ち込むことで、いつか他人の役に立つことがあり、未来に突き進む原動力となると信じている。